アフロな阿弥陀仏と黒谷さんと八ッ橋

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最近、時々目にするようになったアフロな阿弥陀仏は、金戒光明寺(黒谷さん)にあります、と言うか居られます。あまり信心のない筆者の不適切な表現にはお目こぼしください。場所的なイメージは平安神宮と慈照寺銀閣を結ぶ線の中間です。アフロな阿弥陀様の正式名称は五劫思惟(ごこうしゆい)の阿弥陀仏と言い、衆生を救おうと想像がつかないほどの長い時間修業したせいで螺髪(らほつ:粒粒の髪の毛)が大きくなったそうです。
阿弥陀仏は浄土宗系の教えに登場する仏様の中でも1番すごい仏様だそうです。人間出身で仏教の創始者であるお釈迦様の先生にも当たるそうです。


法然上人(1133-1212)が教えを広めるために比叡山から降りてきて、石の上で念仏を唱えた時、紫雲が湧き上がり辺りが金色に輝いて芳香が漂ってきたそうです。法然上人はこの場所に縁があると考えてこの地で草庵を結び浄土宗を開いたそうです。それが金戒光明寺の元になります。法然上人が座られた大石は同寺の塔頭の西雲院(さいうんいん:会津藩の菩提寺)の境内に「紫雲石」として祀られています。

金戒光明寺は観光地としては余りメジャーではありませんが、色々な歴史的なシーンで重要なポジションを占めています。

●金戒光明寺は京都守護職の本陣だった
幕末の京都は倒幕(討幕)の動きが盛んになり、諸国から過激志士らが集まり、要人暗殺、商家への強奪が横行し、治安維持のための京都所司代や京都町奉行では防ぎきれなくなっていました。江戸幕府は京都の治安維持、御所・二条城の警備を役割として京都守護職(1862-1868)を新設し、会津藩をその職に任命しました。会津藩主であった松平容保(かたもり)は家臣1000名を率いて金戒光明寺に本陣を布きました。法然が浄土宗を開いたこの地は小高い丘になっている自然の要塞になっており、御所・二条城にも近く、はるか大阪城まで見通せました。この時期、本来将軍警護のために組織された浪士組は過激派の長州を京都から追い出す際に活躍し、後に朝廷から「新選組」と命名され市中取り締まりに当たり治安は良くなったそうです。この辺りの情報はサクッと書いておきます。
●八ッ橋のこと

金戒光明寺の参道は、丸太町通の一本北の春日通です。東山丸太町の交差点の北西に、熊野神社があります。その境内には、「八ッ橋発祥の地」の石碑があり、隣に西尾為治の銅像があります。為治は八ッ橋の発展に関しては中興の祖であることは揺るぎないものがあると思いますが、八ッ橋の名前のルーツについては大きく、伊勢物語に由来する「三河の八ッ橋」説と箏(こと)の名手八ッ橋検校(けんぎょう:盲人の最高位の官職名)の「楽器説」があり、大手3社の間では訴訟騒ぎが何度かありました。京都のお土産の上位に位置する八ッ橋のメーカーは14社あります。時々食べるとおいしいなあ、と思いますが、歴史が長いと言うことはそれなりにトラブルの背景も色々あるものだ、と感じています。
東大路通から春日通を東に入ると「本家西尾八ッ橋」と「聖護院八ッ橋」の本店が向かい合っています。そのロケーションに、昔、何かあったんだろうな、とまた余計な妄想をしてしまいます。京都の各駅や観光地のあちこちで見られるメジャーブランドは「本家西尾八ッ橋」、「聖護院八ッ橋」、「井筒八ッ橋本舗」です。各社とも昔の八ッ橋の味は守りつつ、今の人たちに受ける新しい味を常に追求しています。守るものは守って新しいものを取り入れていくのが京都文化の本質です。

八ッ橋の味は、どれも美味しいですが、築100年を超える数寄屋風書院造の屋敷を買い取り、リーズナブルな価格で食事を提供している「本家西尾八ッ橋」がガイド的には好みです。西尾八ッ橋の里

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